元盛松(もとさがりまつ)

元盛松の歴史探訪──石積みの集落跡から熊野灘の広がる海辺へ

寺の境内にそびえ立っていた老松が地名の由来

この地に開基された海蔵寺に老松が枝を下げてそびえ立ち、どこからもよく見えたのでこの地区を下松(さがりまつ)と呼ぶようになりました。慶長6年(1601)の検地によれば、下松浦に27戸(三木浦は22戸、早田は7 戸)との記録が残り、当時としては大きな集落であったことがわかります。安政年間、1772年になって、下松では縁起がよくないからと「盛松」に浦名を改めます。絶好の漁場(権利)を持っていたといわれますが、漁場があっても荒磯のために船着場がなく、物資も山坂を越えて運んでいました。集落は奥地と下地の2つの地区から成り立っていて、明治3年、苗字の使用が許されると、2つの地区名はそのまま姓に。明治7年(1874)の戸籍簿によると、盛松には27戸126人(三木浦には97戸542人、早田には52戸223人)でしたが、電気もつかないことから、昭和2~ 3年に全戸が三木浦の湾奥「コノワ」地区へ移住しました。

庄屋屋敷

奥地地区にある立派な屋敷。三方を大きな石垣で囲っています。屋敷裏側の湧き水を生活に利用していたそう。屋敷前の道を進むと頼母側の木戸(出入口)に行き当たります。

石の水槽

湧き水をためた水槽は一枚岩を刳り貫いて作られています。これが下地地区の共同の水場です。谷は浅く、川らしきもののない盛松で水は貴重。溝のような川を「流れ川」と呼び、洗濯場や子供たちの水遊び場になっていました。

神社跡・舟形地蔵

下地集落の端にある鏡神社跡。移転後にコノワ地区に神社を建てましたが、その後三木神社に合祀されました。今も鏡神社の鳥居が使われています。

猪垣

整然と長く積まれた石垣は集落の要寒のよう。出征兵士を先頭に集落全員で猪垣をぐるりと廻って祈り送り出したそう。移転した後も昭和19年まで道普請として整備していました。

寺跡

1611年、周峯千徹が開基。ここに枝を下げる老松がありました。奥にあった墓地は、集団移転時にコノワへ移され、石碑には享保、宝暦の古いものも。当時運んだ苦労が偲ばれます。

飛び箱

明治10年(1877)、三木浦に三木小学校が創立されますが、通学の不便さから大正12年(1923)、分教場が海蔵寺に設置されます。運動場跡にある丸い石は、飛び箱代わりに使われたもの。

荒磯にはゴロタ石。これは白い花崗岩が長い年月荒磯に削られ丸くなったもの。左にカナトコの鼻がそびえ、右はドマルの鼻に続いています。柱状節理の絶壁が圧巻。大岩に柱を立てる穴があり、船着場として使われていたようです。

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